静香が訪ねたのは、レッスン場から十五分ほど歩いた場所にあるうどん屋だった。オフィス街の中にあるこの店は、十三時を過ぎると客入りが落ち着く。行列に並ぶ気力まではなかった空腹の静香にとって、それが最良の選択だと思った。また、アイドルとして売れ始めている静香である。嬉しいことではあるが、無用の混乱は避けたかった。そして、その選択は正しいものだった。
昼だというのに、太陽が雲に覆われているために身を刺すような寒さである。ただでさえ強い北風がビルをかいくぐって吹いてくるため、その強さが増幅される。まるで、静香をうどん屋に行かせまいとしているような向かい風だった。ナポレオンの進軍を、ドイツ軍によるスターリングラードへの攻勢を阻んだ冬将軍は、今や静香にも襲わんとしていた。しかし、静香は勝った。ビルの角を回ると、店の看板が見えた。
古く色褪せた紺の暖簾をかき分け、がらりと戸を引くと、「あら静香ちゃん、いらっしゃい」という女将の柔らかくも強い声が飛んできた。寡黙な大将は「らっしゃい」と呟く。対照的な反応である。うどんを茹でる釜から立ち込める蒸気、出汁の香りが店を満たしている。十席ばかりのカウンターと三つのテーブルだけの店内には、五人の客。一人のうら若き少女の登場に、少しばかり驚きの一瞥を静香に向けるが、すぐに自ら各々の為すべき義務、うどん屋に腰を下ろす存在理由の行動に戻る。店内には、換気扇の音、うどんを啜るまばらな音、テレビから流れるワイドショーのガヤが響くだけである。
静香は、セルフサービスの水を酌み、自らのコートとマフラーを椅子に掛けてから、カウンター席に座る。惰性でメニューに手を伸ばすが、女将に「まだ鶏は残ってますか」と尋ねた。女将が冷蔵庫の中を確かめ、「まだあるよ」と言うと、「それじゃあ、かけうどんとミニ鶏天丼のセットで」と静香は言った。迷いのない通った声だった。
「静香ちゃんはその組み合わせが好きよね」と笑い、女将は大将に注文を告げた。大将は頷き、うどんを茹で上げる作業に取り掛かる。女将もまた、丼を仕立てる作業に就いた。完成まで大体、十分というところだろう。静香はスマートフォンを取り出し操作をしつつ、物思いにふけりながらその時間を待つことにした。うどんに丼というのは、かなり炭水化物の多い食事ではあるかもしれない。アイドルはプロポーションの維持が肝要である。しかし同時に、長時間のライブに耐えられうるだけの体力も必要となる。それゆえ、今日のような激しい運動をした後には、体力維持のためにも多く食べることが求められた。これは静香のプロデューサーからの言いつけであった。そして、うどんを愛する静香にとっては、体力維持のためにうどんを食べる大義名分が与えられたようなもので、大いに喜んだ。静香は愛い奴である。
客の入りも理由にあるのだろう。十分とかからず、鶏天とかけうどんの丼、そして漬物の小皿を載せた盆を、女将が運んできた。調理場から漂っていた香りと音は静香を煽っていた。鶏肉や野菜を揚げる音、揚げた具が丼つゆにさっとくぐることで広がる香り。うどんの湯切りをする音、出汁の香り。盆を目の前に置くことで、その香りは一層濃いものとなった。小さな陶製の丼に入った鶏天丼は、中に潜む米を隠すように具が上に載っている。揚げてすぐにつゆに潜らせた鶏天は、程よい茶褐色に染まっている。静香は喉を鳴らした。
そして、静香はこの店のうどんが好きだった。特に、かけうどんを愛していた。そのかけうどんは、コバルトブルーの釉による模様が美しい波佐見の白磁に入っている。少し厚みがあり、ずっしりとした、波佐見焼特有の器の良さもある。器の白色に映える黄金色の出汁、その中を泳ぐ乳白色の麺、出汁の表面を彩る刻み小葱と紅白蒲鉾。その他には何もないかけうどん。無にして有、有にして無。しかし、この佇まいの美しさ。ああ、これ以上に何を加え、減ずれば良いというのだろうか!
永遠とも眺めていたいこの美しき光景を、静香は少しずつ崩していく。静香は空腹なのである。黄唐辛子の一味を、振りかける。辛すぎてうどんを台無しにしないよう、黄金比ともいえる配分を見極めて振りかける。手を合わせ「いただきます」と呟くと、箸で四、五本の麺を引き上げた。細目で、薄く透き通った乳白色の麺である。福岡にうどんの団体があり、この麵はその団体の特徴であるそうだ。大将はそこで修業した後、上京してこの場所に店を構えたらしい。静かに啜ると、麺は口の中へ飛び込んでいく。コシやモチモチ感というものはあまりなくクニュクニュとしているが、つるりと滑らかな麺は喉越しが素晴らしい。汁絡みもよく、麺を啜ると出汁の風味も心地良く現れる。
次に、レンゲを用いて一口分の出汁をすくう。静香の手により持ち上げられたそのレンゲは、うどんで満たした丼という小宇宙に浮かぶ宇宙船のようである。軽く冷ましてから出汁を啜った。昆布が強めに利いた、西日本らしい出汁の味である。薄口醤油で味を調えているところも、そのらしさが出ている。鰹節もほのかに感じる。そして鯖節が、他のうどん屋にはない香ばしさとパンチを出している。出汁だけを飲むと、麺を啜った時とはまた一味違う出汁の旨味が口内を包む。静香は美味しさに溜息をついた。静香は愛い奴である。
横目に入った鶏天丼が、静香の理性を取り戻した。三度四度と麺を啜り、うどんをそのまま食べ切ろうとせんばかりの勢いであった。しばらく放っておかれた鶏天丼は、程よい温かさになり、丼つゆが揚げ衣に一層染み込む。山のようになった鶏天を一つ、静香は食べた。鶏ももである。柔らかい。そこに丼つゆの甘みと旨味が追いかけてくる。ちらりと覗く米に、静香は箸を入れる。鶏天から滲み出た油と丼つゆを受け止めた白米は、一層の輝きを見せ、それはガーネットのようであった。
※もがみんがうどんを食べているだけです※
それからの静香は、疾風怒濤のごとくであった。背筋の角度はピンとしたまま変わらず、美しい所作で食べた。しかし、目の前の食事というもの以外には、一切が視界から消失しているようだった。まさに一心不乱という言葉が当てはまった。うどんを啜る、出汁を飲む。鶏天丼に手を付ける、漬物を一つまみし、再び鶏天丼に。そしてうどんを…。その流れは四万十川のように清らかで、球磨川のように激したものだった。小石原の小皿に入った漬物は、よいアクセントであり、うどんと鶏天丼の橋渡しとなった。
彼女は気が付かなかったであろうが、彼女の食べる姿に店の誰もが目を奪われていた。音を立てて食べていたわけでもない、むしろ静寂だった。凛とした居住いで目の前の丼に向かうその姿勢に、一体誰がその姿から目を離すだろうか?調理場から見る静香の正面、カウンターからの横顔、テーブル席からの後ろ姿、すべてが美しかった。ああ、うどんを食す姿勢とはかくあるべしなのだ!店にいる全員が悟るのである。
一体、静香は何を思いながら、箸を休めることなく黙々と食べ続けたのだろうか。静香は、途中から無の境地にいた。研ぎ澄まされた五感は、鼻腔と味蕾に集中していた。鶏天丼とかけうどん、そして漬物が織りなすものは何かを、本能的に受容しようとしていた。その三重奏は、時にアート・ブレイキーのように猛々しく、時にビル・エヴァンスのように繊細で、そしてベニー・グッドマンのビッグバンドのように勇壮だが優美なハーモニーだった。その複雑なハーモニーを、うどんの丼を掲げて出汁を飲み干した時、静香は直感的に見出した。
美味い、と。
その単純な余韻で十分だった。丼を置き、多幸感の詰まった溜息をつく。口元を緩め、一人微笑する。今の彼女の幸福感には、リヨンの名店ラ・ピラミッドでさえ敵わないだろう。口を満たす余韻を残したい気持ちはやまやまだったが、静香は水を含みそれを洗い流した。会計を済ませる。量の割にリーズナブルな価格である。いくらアイドルとはいえ、お小遣い制の十四歳の少女である静香とっては有難い。コートとマフラーを身に着ける。そして、女将と大将に「ご馳走さまでした」と一言挨拶をすると、静香は店を後にした。彼女の来店を一瞥で迎えた五人の客は、戸を閉めるまで静香の姿を目で追っていた。
静香は通りを歩き、事務所へと戻る。うどん屋で見せていたような幸福に満ちた表情はなく、凛としている。いまだに風が強く、街は冷え切っている。途端に突風が吹くと、彼女の髪が空中に舞った。舞った髪は、静香の鼻元を触れた。その刺激からか、また寒さもあったからだろう、静香は「へくちっ!」と可愛らしい声を上げてくしゃみをした。静香は愛い奴である。
おわり
...つづく?
饂飩一杯をここまで表現するとは流石もがみん
乙です
>>2
最上静香(14) Vo
http://i.imgur.com/BE1XQSj.jpg
http://i.imgur.com/4aXhrb7.jpg
http://i.imgur.com/occfRrP.jpg
http://i.imgur.com/TKoEetC.jpg
何かわかんないけど書いてしまった、後悔はしていない。
タイトルはラズウェル細木の『う』から。あの方のはうなぎでしたが。
ただ単に「もがみんがレッスン後にうどんを食べるお話」でした。
もがみんとうどんなら、昔こんなの書いたよ。よかったら読んでください。
最上静香「あれは・・・うどん職人!?」藤原肇「違います!!」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1396941747/
画像先輩!ありがとうございます!
久々に書かせていただきました。また時々書けたらと思ってますー。
もがみんのうどん愛、御馳走様でした
深夜になんとも腹が減ってしまった
面白かった
おつ
乙乙
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