私の記憶にはそいつを呼ぶ「ミキ」という音がすっかり定着しているが、稀に「ホシイ」という名で呼ばれているのを耳にすることもある。
「ホシイ」も「ミキ」も彼奴の呼び名であって、どちらが正しい呼称なのかは分らない。分らないから、私はどちらもそいつの名前なのだと考えている。
ホシイが先にくるのは語感の問題なので、大して深い意味はない。
同じく、彼奴について私がこうして考えていることも、また意味のないことである。
今は腹も空いていないし、時間潰しの余興にそういうことをするのもよかろうと思う次第であった。
長きにわたって飽きもせず、ちょくちょく我々の前へ顔を見せにきては食べ物を寄越してくれるホシイミキは、また人気者でもある。お陰で物忘れな私でもホシイミキのことを頭に定着させることが出来、今に至っている。
ホシイミキが我々の前に現れるようになってから4、5回は季節の巡りが改まった気がする。詳しい数は忘れたが、3回より少ないということはなかったと思う。
私は、自身の幼いころからホシイミキを目にしてきた。そして、ホシイミキもまた、幼いころから我々を目にしてきたはずである。
はずである、というのは、人間の生に通じていない私にはホシイミキの年齢が分らぬからだ。
しかし、体の大きさや身にまとう雰囲気を時の歩みに応じて目まぐるしく変化させてきたことから考えるに、彼奴は自身の成長期を我々と共に過ごしてきたのではないかと思われる。
今もまだ成長の途上なのかもしれないが、とりあえずこの疑問は措いておこう。
ただ、これからも彼奴のああいった変化を目に出来ると仮定してみると、楽しみで、また恐ろしい心地になった気がした。
そんな私がくわくわ鳴いてばかりだった雛鳥の時分からホシイミキを認識しているので、或いは、彼女に生誕直後から死の間際までの鳥生を見守られたという者もいるかもしれぬ。
ふとホシイミキに看取られることを想像してみたが、なんともぞっとしない気持である。
この思いは、しかしホシイミキの責任ではなかろう。とにかく、訪れてもいない死を意識するのは不毛だということが分った。
奴はいつのまにか我々の前に現れ、我々のぷかぷか浮かぶ様を適当に眺め、不意に食べ物を放り投げてはまたいつの間にか去っていくのである。
とりとめのない無駄話に興じる(当然、向こうが一方的に声を発するばかりである)こともなくはない。他の人間と一緒になって、ああだこうだと話しかけてくることもある。
まあ、彼奴の行動様式はこれくらいだ。
声をかけたり、写真機を向けてくる人間は珍しくない。が、たまに声をかけてくるだけで、我々をぼうっと眺めるだけのことを長年続けるのは中々奇特な振舞いであると思う。
昔は一日中しげしげと目を向けられることもあったが、今ではそうしたことはすっかり少なくなった。
いらざる緊張要因が消えてほっとした気持であるが、彼奴の中で我々への関心が薄れたとすると、ほんの少しだけ寂しい心地にもなる。
群れの中で己の存在を顕示するのは生存のために欠かせぬことであるから、まあ、人間からそういう視線を浴びるのも悪い心地ではない。
しかしながら、彼奴は群れの仲間とは違うので、悪くはないというだけで済んでしまうのも詮のないことである。
彼奴は、彼奴自身の群れの仲間から、そういった視線を浴びた経験があるだろうか。
思い返すに、我々を眺めているホシイミキがその合間に他の人間から声をかけられることもなくはないので、彼奴が人間の群れから孤立しているという懸念はしなくてもよいと思う。
ホシイミキに声をかけた者が、彼奴の調子に巻き込まれて我々を観察し始めるという光景も幾度となく見てきた。だから或いは、彼奴は群れの中でも上位の力を有しているのかもしれぬ。
そうであるなら、彼奴に師事したいという気持がある。生きるために必要なことなら、何だって身に付けたいものだ。
であるから、彼奴が同じ生き物でないことを惜しく思うと同時に、同じ群れにいる彼奴に好き放題に威張られるというのも(認めたくないが)かなりの可能性でありえたので、そうでなくてよかったなどと安堵を覚える次第である。
心当たりとしては、魚を捕まえたときに彼奴の歓声を聞いたことがあるので、魚捕りの方法を我々に学ぶつもりなのかもしれない。だとすれば、我々から学んできたやり方を自ら実践しようとしないのはまったく気概に欠けていると言わざるを得ない。
それとも、彼奴は空の飛び方でも知りたいのだろうか。
私が空へ浮こうと羽を広げたとき、それまで余所見をしていた彼奴から一転視線を向けられたという経験が少なくないし、この推測はあながち間違いでもないと思う。
しかし、人間の体には風を切るための羽も、切り裂いた風に乗れるだけの軽さも見受けられない。ホシイミキがそれでもなお空の飛び方を学ぼうとしているのなら、なにやら不憫な気がする。
ただでさえ心許ない記憶力を、時の砂がますます劣化させたのでずいぶんうろ覚えの科白になってしまった。しかし、思い返す限りではこんなことを言っていたはずである。
「カモはいいなぁ。なにもしないで目を閉じてても、ぷかぷか水の上に浮かべるんだもん」
万に一つ私の記憶が正しいとすれば、ホシイミキはまさしく我々のぷかぷか浮かぶ無造作な様に憧れを抱いているということになる。
とはいえ、これは互いに幼い頃の話であるから、私の記憶が正しいとて未だに彼奴が我々に憧れる理由としては信じ難いものだ。
我々が一見無為に見えてもへいちゃらで水に浮かんでいられるのは、我々の体がそうなっているからであって、憧れたところでどうしようもあるまい。
それに、我々であれば生まれたばかりのひよっこでも出来ることに長年憧れ続けられても、こちらとしては反応に困るというものだ。
そういう次第でやはりホシイミキの羨望のわけは分らぬが、億が一この推測が正しいとして仮想すると、ホシイミキの精神は余程幼いのだと思われた。
先は彼奴が我々の仲間であるという妄想をしたものだが、逆に私が彼奴と同じ人間だったらどうであろうか。
私には私の仲間がいるように、ホシイミキにはホシイミキの仲間がいる。
それは、顔や雰囲気がホシイミキに似ている奴であったり、赤い装飾を頭に着けた奴であったり、眼鏡をかけた厳しい口調の奴であったり、彼奴にやたらと絡もうとする甘ったるい声の奴であったりと様々だ。
大方、そいつらはホシイミキの家族であるとか、同輩であるとか、管理者であるとか、後輩であるとかするのだろう。
中でも、近ごろとみに見かけるのが背広姿の奴だ。背丈や声の低さからしてオスだと思うが、彼奴の父親にしては若く見えるし、兄弟とも違う気がする。そして、番にしてはずいぶん頼りなさげである。
ただ、そいつと居る時のホシイミキは何やら機嫌がよさそうな表情を見せるので、そいつがホシイミキにとって大切な人間であるのは間違いなさそうだ。
身勝手で幼く、とりとめのない彼奴に付きまとわれる背広野郎には、カモながら同情するというものだ。
というのも、慣れぬことを続けていると頭は疲れてくるからだ。まったく、時間潰しで自分の身を潰すような間抜けに好き勝手な考察を加えられては、ホシイミキも迷惑に違いない。
それを承知で思索を続けるに、私はホシイミキをどう思っているのか、自分でも分らない。彼奴については、本当に分らぬことだらけだ。
とにかく、彼奴は私にとって迷惑な存在でもあれば、色々興味を惹いたり、飯をくれたりとありがたい存在でもあるのは間違いない。面映ゆい言い方になるが、私は彼奴のことがこれでけっこう好みのようだ。
ここまで考えたところで、いい加減腹が減った。このままでは、いずれ冗談でなく餓死の危機を意識してしまうことになるだろう。
であるから、ホシイミキという人間についてのよしなしごとはこれで一旦打ち切りだ。そこらの魚を捕まえて、空きっ腹を満たすとしよう……。
(終)
自分でも「なんだこのSS(小説)?」と思いながら書いた作品になりましたが、美希の美希らしい部分が少しでも読み取っていただけるようなものに仕上がっていれば幸いです。
長々と失礼しました。読んでいただき、ありがとうございました。
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